2008年07月28日 12:12
いやはや蝉時雨で( ゚д゚)ハッ!っと目覚める今日この頃の私ですが、いよいよ7月も最終コーナーをまわり、灼熱の夏が近づいてきて・・・いるというより、すでに居住区域周辺では鉞すぎるほどに真っ盛りに思えまして、先週よりのクーラー導入は遅すぎず、かつ早過ぎずなナイスタイミング、死語的に言えばドンピシャだと思いたいもんです。
そういえば、ドンピシャの語源って一体何処の誰なんでしょうねヽ(゜ー゜;)ノ
困ったことはグーグル先生に尋ねるが一番、早速検索かけてみたところ、「どんぴしゃり」、諸説はいろいろあるようですけれど、「どん底」とかの「どん」という強調にドア等を「ピシャリ」と閉める、とかの語源がくっついたやら、他にも諸説あったりとかだそうで、案外語源由来なんてもんは特定出来ないもんですよねえ。
結局、何が正しいのかどうかは自分自身で決めればいいという万人にとって都合のいい多世界解釈にも似た理屈が量産され、真実は常に一つとは限らないという見た目が子供で頭脳が大人な御方を真っ向否定することになったりするもんです。
とはいえ、それは考えなくても当然だと思ったりします。誰が言ったのか特定できるレベルでない文言なんてものは、正直誰が言ったのかはどうでもよかったりしますし、むしろ「この流行語は私が考えたものだ」とかのたまうヒトがいらっしゃったら、たぶんそのヒトの信用度って結構びみょ〜なんじゃないでしょうか。
そういう意味で「流行の仕掛け人」とかいう類の人たちにどうにも信がおけないのは、本当にその方がソレを仕掛けたのかどうかというのが証明出来ないからなんですよ。その年に流行ったものは来年必ず消えるという流行語大賞においても、芸人さんの一発芸なものは証明できるんですけれど、昨年の「どんだけ〜」とかの言葉とかになると、あまりにも起源となる諸説が星の数ほどあり、そのどれもが証明不能なんですよね。
勿論、誰それが言い出したって説はあるでしょうけれど、それはあくまで説であり、そのヒトが本当に発信源なのかどうかは、たぶん時空を越えし全宇宙を統べる絶対的な存在ぐらいじゃないと確認できないんじゃないかと思うわけで(;゜д゜)
それにしても、流行というものは不思議なもので、そこに何か根拠があるわけでもないのに、あたかもそこにあったかのように土台がいつの間にか現れ、そして壊されては新たな流行が生まれる、誰が作ったのかと問われれば、むしろ流行に乗った人達全員であると言えましょう。
つまり流行というものは、乗った人たちがその発信源であり、且つ受信元に成りうるんじゃないでしょうか。いあ、だからどうと言われればどうということもなくただ単にツラツラ書いているだけでソロソロ落としどころを見つけたいもんですが、そもそも風邪と花粉症くらいの流行にしか乗らない私自身にとってこの話題を軟着陸させるのは大変です(;つД`)
よく、流行遅れとか流行に疎いとかという表現があったりしますけれど、別に誰しも好き好んで流行に乗って無いわけじゃないと思うんですよね。流行に乗ろうと思えば、誰だって乗ることが出来るんだと思うんですよ。
とはいうものの、言うは易しで行うが難しなのは、流行という眼に見えない潮流を泳ぎ切るのは非常にパワーのいることであり、それはファッションなどを例にとっても、流行に追いつき、先取りするための労力、いやもはや勉強といったほうがいいのか、とにかくエネルギーがいるわけです。
が、エネルギーはヒトそれぞれ許容量が違い、パワフルでエネルギッシュなヒトもいれば、植物のように静かに生きたいヒトもいるわけで、人生に割くエネルギーを試算した結果、そこにエネルギーを割くよりは別の部分に転用したい、いえしているというヒトも多いんじゃないでしょうか。つまり、流行に乗らない人は乗れないんじゃなくて敢えて乗らない、つまりはやろうと思えば出来・・・
・・・
やはり、話の持っていく方向が後手に回っているようです(つд・)
やろうと思えば出来る、でも敢えてやらないなんて論理、如何考えても出来ない言い訳の大気圏を突破出来るほどの説得力はないんですよねえ、これって。それは、やらないヒトたちが本当にやれるに値するエネルギーを持っているかどうかの証明が出来ないということに繋がるんですよ、流行語の言い出しっぺの証明と同じように。
そう考えてみると、事象に対して「やる」「やらない」の話において、敢えて「やらない」という証明が出来るのは、「やった」という証明を以ってしか出来ないわけであり、この証明が出来なければ、それは転じて事象を処理「出来ない」という烙印を押されかねないんですよねえ。
とはいうものの、やりたくないから「やらない」わけであり、その「やらない」を証明するが為にやらなければならないことがあるならば、むしろ「出来ない」と思われていたほうが気が楽に思えたりするんですけれど、かといって「出来ないんだ、へへん(-∀ー#)」とか思われるのも癪に障るものがあったりします。
ま、実際はそんなことに乱されない心を持つことが人生最も平穏に生きる近道なんでしょうが・・・
なので。
自分に出来ることか、出来ないことか。
それを判断できるのは自分しかいないわけですよ。
だから。
納得できるまで突っ走ってみようじゃありませんか。
そのうえで出来ないならそれでいいじゃないですか、諦めもつきますしね。
まずは動いてみよう、じゃないと何も変わらないんです。
そういうことで、この文章をまとめるのは諦めました(´з`)y-〜
そういえば、ドンピシャの語源って一体何処の誰なんでしょうねヽ(゜ー゜;)ノ
困ったことはグーグル先生に尋ねるが一番、早速検索かけてみたところ、「どんぴしゃり」、諸説はいろいろあるようですけれど、「どん底」とかの「どん」という強調にドア等を「ピシャリ」と閉める、とかの語源がくっついたやら、他にも諸説あったりとかだそうで、案外語源由来なんてもんは特定出来ないもんですよねえ。
結局、何が正しいのかどうかは自分自身で決めればいいという万人にとって都合のいい多世界解釈にも似た理屈が量産され、真実は常に一つとは限らないという見た目が子供で頭脳が大人な御方を真っ向否定することになったりするもんです。
とはいえ、それは考えなくても当然だと思ったりします。誰が言ったのか特定できるレベルでない文言なんてものは、正直誰が言ったのかはどうでもよかったりしますし、むしろ「この流行語は私が考えたものだ」とかのたまうヒトがいらっしゃったら、たぶんそのヒトの信用度って結構びみょ〜なんじゃないでしょうか。
そういう意味で「流行の仕掛け人」とかいう類の人たちにどうにも信がおけないのは、本当にその方がソレを仕掛けたのかどうかというのが証明出来ないからなんですよ。その年に流行ったものは来年必ず消えるという流行語大賞においても、芸人さんの一発芸なものは証明できるんですけれど、昨年の「どんだけ〜」とかの言葉とかになると、あまりにも起源となる諸説が星の数ほどあり、そのどれもが証明不能なんですよね。
勿論、誰それが言い出したって説はあるでしょうけれど、それはあくまで説であり、そのヒトが本当に発信源なのかどうかは、たぶん時空を越えし全宇宙を統べる絶対的な存在ぐらいじゃないと確認できないんじゃないかと思うわけで(;゜д゜)
それにしても、流行というものは不思議なもので、そこに何か根拠があるわけでもないのに、あたかもそこにあったかのように土台がいつの間にか現れ、そして壊されては新たな流行が生まれる、誰が作ったのかと問われれば、むしろ流行に乗った人達全員であると言えましょう。
つまり流行というものは、乗った人たちがその発信源であり、且つ受信元に成りうるんじゃないでしょうか。いあ、だからどうと言われればどうということもなくただ単にツラツラ書いているだけでソロソロ落としどころを見つけたいもんですが、そもそも風邪と花粉症くらいの流行にしか乗らない私自身にとってこの話題を軟着陸させるのは大変です(;つД`)
よく、流行遅れとか流行に疎いとかという表現があったりしますけれど、別に誰しも好き好んで流行に乗って無いわけじゃないと思うんですよね。流行に乗ろうと思えば、誰だって乗ることが出来るんだと思うんですよ。
とはいうものの、言うは易しで行うが難しなのは、流行という眼に見えない潮流を泳ぎ切るのは非常にパワーのいることであり、それはファッションなどを例にとっても、流行に追いつき、先取りするための労力、いやもはや勉強といったほうがいいのか、とにかくエネルギーがいるわけです。
が、エネルギーはヒトそれぞれ許容量が違い、パワフルでエネルギッシュなヒトもいれば、植物のように静かに生きたいヒトもいるわけで、人生に割くエネルギーを試算した結果、そこにエネルギーを割くよりは別の部分に転用したい、いえしているというヒトも多いんじゃないでしょうか。つまり、流行に乗らない人は乗れないんじゃなくて敢えて乗らない、つまりはやろうと思えば出来・・・
・・・
やはり、話の持っていく方向が後手に回っているようです(つд・)
やろうと思えば出来る、でも敢えてやらないなんて論理、如何考えても出来ない言い訳の大気圏を突破出来るほどの説得力はないんですよねえ、これって。それは、やらないヒトたちが本当にやれるに値するエネルギーを持っているかどうかの証明が出来ないということに繋がるんですよ、流行語の言い出しっぺの証明と同じように。
そう考えてみると、事象に対して「やる」「やらない」の話において、敢えて「やらない」という証明が出来るのは、「やった」という証明を以ってしか出来ないわけであり、この証明が出来なければ、それは転じて事象を処理「出来ない」という烙印を押されかねないんですよねえ。
とはいうものの、やりたくないから「やらない」わけであり、その「やらない」を証明するが為にやらなければならないことがあるならば、むしろ「出来ない」と思われていたほうが気が楽に思えたりするんですけれど、かといって「出来ないんだ、へへん(-∀ー#)」とか思われるのも癪に障るものがあったりします。
ま、実際はそんなことに乱されない心を持つことが人生最も平穏に生きる近道なんでしょうが・・・
なので。
自分に出来ることか、出来ないことか。
それを判断できるのは自分しかいないわけですよ。
だから。
納得できるまで突っ走ってみようじゃありませんか。
そのうえで出来ないならそれでいいじゃないですか、諦めもつきますしね。
まずは動いてみよう、じゃないと何も変わらないんです。
そういうことで、この文章をまとめるのは諦めました(´з`)y-〜


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