記憶の保存形式についてスラスラ

2007年04月26日 01:15

残り短い余生を有効に活用しようと、1日の間に数分ほど資格取得のための勉強時間に割り振ってみた今日この頃の私なんですよ。取りたい資格はリアル仕事でも必要なもので、それでいて自分の興味にある程度沿っているものでもあるので勉強するのが嫌い>飽きる>やめたという連携にならないのが救いといえば救いといえます。

資格取得勉強のため、数千円の参考書を購入し、1日数ページのペースで進めていくことにしました。この参考書はだいたい4ページで1項目説明となっていて、2ページが概要説明、2ページが練習問題となっているんですよね。つまり、その概要がちゃんと把握できているかどうかというのが、その直後の練習問題で復習できるわけでして。


ところで、この練習問題は穴埋め式で、次の文章の空欄に最もふさわしいものを下記の語群から選択しなさいというタイプで、問1の空白は下記の欄のbで、問2はfで、とかというように解いていくんですよ。
当然、こういった練習問題は1回で終わりではなく、何回も解いて頭にインストールしていくことが重要・・・ではあるんですが、私の場合これらの問いに対して何故か答えではなく答えの記号を無意識に暗記してしまうという変な仕様があったりしまして、即ち、問いに対する答えの文章ではなく、ここの練習問題の答えはb,f,c,a,h,j,k・・・の順というようなところを覚えてしまうもので、頭に入っているんだか入っていないんだかさっぱりわかりゃしないうえに、まったく変なところばかり覚えてしまって困ったもんですよ┐(゜〜゜)┌

しかもこの記憶、厄介なことに無意識のバックグラウンドで高速に維持リハーサルが繰り返し実行されているらしく、数日数週間で消えないんですよねえ。ひどい時には数ヶ月単位で覚えていました。勿論覚えているのはその記号の並びだけで、その問題集の内容や答えに関しては当然ながら覚えていないわけでしてヽ(;´Д`)ノ
久しぶりに見た教科書や参考書でも、穴埋め式の練習問題に関しては正解率が高かったりするのが何とも悲しいもんです。そして、当然の如く記述問題などは以下略なもんです(゜ーÅ)
これのおかげで練習問題はバッチリなのに本番はダメすぎる論理が成立するんですよねえ・・・
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ボクたちの未来形をスラスラ

2007年04月18日 18:05

4月も中ごろを過ぎ、かのGWが近づいてきたわけですけれど、GWに代表される大型連休といえばそれこそ行楽であったり、普段積んであるゲームを消化したり、はたまた都合のあうフレとBCやら集中してレベル上げ三昧だったりする方が多い中、普段が普段だけにどこぞへ出かけたい気分な今日この頃の私なわりには人ごみが嫌いだったりする私でもあるので、間をとってどこぞの温泉地でログインしてBC行けばいいんじゃないかなと思う段階ですでに人としてダメかなと思いました(゚Д゚;)


まぁ別に無理に何処かへ出かけるのも単にお金の無駄遣いであるので、ここは発想をちょっと変えてみて別のオンラインゲームを軽くプレイしてみようかな、とも思ったわけなんですよ。まして4月に入り、かの女神転生imagineがアイテム課金をもって正式サービスとなったり、世界的に有名なセカンドライフが日本語に対応したりしましたし。

実際のドルに両替出来るRMTの行き着く先であり、既存のオンラインゲームを越えたひとつの形を成したセカンドライフは、FFとは対を成す、リアルとの連動を視野にいれた仕様は21世紀が生み出した、文字通り第2の人生というべきオンラインコミュニケーションツールといえるでしょう。

・・・でしょう、っていうのは実際私自身がプレイしていないからだったりします。いえ、調べてみればみるほどにハマっていきそうな気がして、慎重派になっているってやつですねえ。
でもこういうタイプであれば、月額であったり、はたまたリアルマネーを出してプレイしようって気になったりしますね。月額で買えるのはセカンドライフ内での土地であり、実際に購入するのは他のプレーヤーが作ったもので、その値段は彼らが設定したものですし、納得して買えると思うんですよ、それは明らかにゲームの根底にある利便性とは関係ないものですから。

これが経験値を一定時間2倍にするツールとか、移動速度をアップするものだとか、はたまた経験値ロストを防ぐためのツールとかだと、なんといいますか明らかにゲームの利便性をあえて切り売りしているようで購入する気になれないんですよねえ。購入しなくてもプレイできる、けれど購入したほうがもっと楽しめる環境というのは、遠からず購入前提という空気を生み出しかねないんじゃないかなと。
たとえ、自分自身がそうでなくても効率という空気が周囲を変えてしまいそうでヽ(;´Д`)ノ

セカンドライフの面白いところは現実社会ともリンクしているところにあり、かのソフトバンクモバイルのショップや、トヨタのショップがあるところからも伺え、コミュニケーションツールにしてメディア媒体になっているところが素晴らしいと思います。また、ゲーム内広告をいち早く取り入れるということは、そこからの広告収入も期待できるわけですし。
今はまだ日本語ベータ版ですが、正式版公開の際には是非とも覗いてみたいもんです。システム要件も低めですし、ネットの未来形のひとつがそこにあると思いますよ('〜')

・・・が、システム要件が低いんですが、現状私が所持しているPCではグラフィック性能が微妙に足りない罠でそのためにPC買い換えるかどうかが目下のところの悩みだったりしますよ。
ましてvistaも発売されましたしねえ・・・(゜ーÅ)

無言実行に連なるものにスラスラ

2007年04月16日 13:52

有言実行という言葉がこの世にはあります。

有言実行:「不言実行」をもじって作られた語。
言ったことは必ず実行すること。

もとは不言実行をもじって作られたとのことで、

不言実行:文句や理屈を言わずに、黙ってなすべきことを実行すること。

という意味合いから来ているんだそうですよ。そのどちらにも属さない今日この頃の私はといいますと、無言実行(誰にも何も言わずに独断で実行する)タイプだったりしまして、後になって「どうしてそんな重要なことを独断で進めたんだ」とか、真っ先に叱責されるタイプだったりしますよ(゚Д゚;)

まぁ元々が「言ったことは実行しない」天邪鬼なんですよσ(゜∀゜
というのも、世の中には言った以上、責任というのが遠からず発生するんですよね。例えば、「今度メシでも食べに行きましょう」という社交辞令、別に必ずしも実行する必要なんてまったくないと思うんですけれど、実行しなかったらしなかったで「口先だけ軽いヤツ」扱いされてしまうことの多いこの社会、そもそも口先の先って何なんだ、言葉は口の内側から出てくるもので先というのは何を持って先と言うのか・・・という余計な突っ込みまで考えてしまう、うかうか思っていることすら簡単に言葉として出すのをためらわせる、まったく世知辛い世の中なもんです。

そゆことで、リアルにおいてもヴァナにおいても、自分自身オンリーのことは大抵過去形で話すことが多かったりします、即ち何かを買った、何かをした、など等。何かを買いたい、何かをしたい、って話すことをあまりしないというわけで、言わなければ言葉に対する責任は発生せず、やってもやらなくても誰も何も言わないですしね、まぁそもそも誰も知らないわけですから言いようがないわけですが(*'-')
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永遠に未完成であることにスラスラ

2007年04月09日 11:42

4月に入って少し経ったある深夜のことなんですが、やたらとサイレンやらの音で眠れなかった時があったんですよ。居住している区域は、都心なわりには静かなところが気に入ったところだったんですけれど、それでも完全に静かというとそうでもなく、たまに深夜、人の短い寿命において限りある時が瞬き煌く一瞬、夜中の学校に忍び込んでガラス割ったり、盗んだバイクで走り出すようなご年齢(若い)だろう方々が、仲間とのデスカッションやら、はたまたそれらを追いかける公僕な方々とのエンドレス鬼ごっこが繰り広げられたりもします。

で、まぁ今回もその類なんだろうなぁと思いながら床についてたんですが、いつもならばドップラー効果でフェードイン、フェードアウトしていくこのサイレンサウンドがいつになっても消えず、いえ消えることは消えるんですが、一番大きな音の時に突然消える、という不可解な法則が起こり、気になって窓を開けてみた午前3時の迷宮、どうにも近所でファイヤーがあったらしいことを知った今日この頃の私だったりしましたヽ(゜ー゜;)ノ


幸いにもすでに鎮火しており、日本消防署の素晴らしさに安堵しつつ、再び床についたものの、そう考えてみれば、もし自分の居住している建物が火事に見舞われた場合、何を持ち出せばいいのかを眠りにつくまでの間に考えてみますた。

とりあえずは財布、次にケータイ類で次にノートPC類。通帳関連はネット利用中心タイプに切り替えたので必須ってわけでもないですし、印鑑類はいつでもケータイの新規契約ができるように常日頃から持ち歩いていますし・・・って考えを煮詰めていくに従い、自分自身の生活がいかにPCやネットを中心に回っているかということが非常によくわかったので、これらを失うことのないように心がけていきたいもんです。
ビバ、インターネット!ヽ(´ー`)ノ

ちなみにXBOX360を代表するゲームハードは、その配線取り外しの煩わしさとその重量からめでたく見送りになっていたことを再認識し、まぁ一応は人並みの危機感なんだなぁと思えて自己安堵ですたよ(´ー`)
DSライトはたぶん持っていくんでしょうが・・・


現代日本において、平和、平穏は当然と思いがちではありますが、それはホントに錯覚であり、むしろ今が平和であり、平穏であるということ自体、我々にとって奇跡の連続体であるということは改めて認識しないといけないことなのかもしれません。
何を言っているのかと思われますでしょうが、極論で申し上げると人生一寸(3.3cm)先は闇なわけで、いつ何が起こるか、この平和が明日も、明後日も、ず〜っと続くという保障は同じ世界に生きる誰もが確信できないことなんですよねえ。先の地震なんて誰が予想できたことでしょうか。転ばぬ先の杖、生命保険、BC前のリレイズは必須といえば必須といえるでしょう。

でも、そんなこと言おうが予想できないことなんてこの世に星の数以上にあることであり、それら全てを予め想定して保険を仕込むことはマネーとタイムがいくらあっても足りないわけで、保険を例にしても火災保険、生命保険、医療保険にがん保険、労災保険に自動車保険に・・・とあり、それらの毎月支払いを考えたらもう・・・(つд・)

時間と金が有限である以上、我々はある程度の可能性の高い保険だけを選んでかけておくということしか出来ないんですよ。それは万難に排するには程遠いピンポイントバリアですが、それでもやるにこしたことはないという理念がそこに働くわけでして。


自分の力の及ばぬところで決定された人生の既定事項を、人は運命やら宿命やらという言葉で片付けがちだったりします。自分自身がどうあがこうとも回避しきれぬ既定イベントであればそう思いたくもなったりします。
ところで、運命と宿命とは字が違うように意味合いも違いまして、

運命:人間の意志を超越して、人に幸、不幸を与える力、または将来の成り行き。
宿命:前世から定まっており、人間の力では回避不能な運命。

だそうで、つまり宿命とは運命の一部ということがうかがい知れます。人知を超えているという点において、運命というのはある種の宗教なのかもしれません。人間の努力、可能性を一切否定するこの言葉、文字通り運命の歯車に組み込まれたならば、それは人は崇拝する神との同一化を指し、人はどれほどまでに幸福に生きられることかという意味では、私自身運命というものに対して賛成派だったりします。

生物にとってもっとも至上の幸福とは何かを考えた場合、考える必要がない、そもそも考えるという概念がないじゃないかなと思います。そこに悦ぶ、楽しむというプラスはありませんが、嘆き、悲しむというマイナスもない、いわばプラマイゼロな人生。
ただ、それは人間の努力、可能性を一定以上全て拒否するということにも繋がるわけで、それはそれでつまらない人生であるという側面もあるんですよね。

人にとって、至上の幸福を求めれば求める程に、人生とは退屈になっていくと考えるなら、人間は限界を知ること、自分を知ること、ひいては知るという行動自体が新たなる退屈という飢えに繋がり、知れば知るほどに飢えていくという恐ろしい連鎖が待ち受けているとも考えられ、まったく人は進化すればするほどに最終的には滅亡に近づくこととなり、進化とは、種とは、誰のために、何のために存在するんでしょうかねえ。

人にとっての完成形は永遠に未完成であることなのかもしれません。終わりがないからこそ、人は終わりなき明日へ向かうことが出来るんじゃないでしょうかな、と。


と、いうことを、いつかどこかで書いたような気がする罠Σ(゜Д゜)
と、いうことを考えていたら朝だった罠ヽ(;´Д`)ノ

求む自由と求まぬ自由にスラスラ

2007年04月02日 18:16

ついに3月も終わり、年度末も終わりということもあっては先々週ぐらいが仕事修羅場ピークだったのですが、ようやくそれも終わった先週をすぎ、そして4月、やけに平穏なリアル仕事時間が周囲に流れている今日この頃の私なんですけれど、平穏すぎると時間が流れるのが遅く感じるうえに、ブログに書くネタが逆に思い浮かばなかったりするので、私自身としては程ほどを所望したい気分なんですが、それこそが贅沢というものなんでしょうかねえ(゚Д゚;)

私自身にとって、ブログというものは空いた時間に書くものでしかなくて、かといってそれはプライベートな時間に書くことはまずないんですよ。むしろ休日とかプライベートな時間にはゲームとか睡眠とかしたほうが遥かに有益と考えるわけで。
ブログの文章と言うのはあくまで仕事中のびみょ〜な合間に書くことに意義があると思うのは、待機時間という仕事であって仕事でない時間を明確に消費する為のものでして、それはブログを始めた2003年から変わっていなかったりします。

つまり、σ(゜∀゜にとってのブログ文章というのは、仕事が為す社会的ストレス、プレッシャーがあってこそ初めて成立するものであり、ブログ更新頻度が低いということはブログを書くほどもなく忙しいか、はたまた仕事がとてつもなく暇なのかのどちらかなわけなんですよ。

ストレスが必要、ってのもなんですが、人間は適度にストレスがあったほうがいい、っていう意見には実は賛成だったりします。ストレスのまったくない環境にもし放り込まれたとしたら、確かに最初こそはその快適さに満足するでしょうが、もしもそれが失われた時に自立できないという危険性もあると思うんですよ。
いざという備えは何事にも重要と思いますし、それは気持ち的にも同じモノかなと思います。一度耐え切ったストレスには人間ある程度のストレス耐性ができるもので、まぁ経験こそが人を成長させると言う論理にあてはまるものがあるんじゃなかろうかと。



暇すぎる、つまり過度な自由というのは、通常で過ごせないことにその時間を当てはめることが多いんじゃないでしょうか。それは、たまの休日に洗濯をまとめてするとか、たまの休日にレンタル店でDVDとか数本まとめて借りて見るとか、たまの休日にたまに沸くNM目当てに海蛇の洞窟に行くものの似たような人生シナリオを経て同じ時間に導かれて集いしライバルの多さにがっくりしたりとかヽ(;´Д`)ノ

まぁ自由が何よりともいいますが、自由という何物からも束縛されない、繋がらないということは、無重力な状態にも似ているようなもので、全てが自己解決しなければならない現実を生きるため、つまり混沌にも似た無重力な自由の海を泳ぐためには、人って膨大なエネルギー(気力、体力ともに)が必要なんですよねえ。

例えば、FFXIのようなヴァナという作られた世界だけで好きなように生きるというのはとても楽しいことですけど、では自由にヴァナという世界を作ってみれば?という問いかけにはとても楽しいこと、といえるかといえばどんなもんでしょうか?(゜ー゜;)

ヴァナという世界を作るとして、アイテムを作る、エリアを作る、敵を、イベントを、魔法を・・・とか考えるとほんとキリがないわけで、もしそれを厭わない方がもしいらっしゃったら、是非ともクリエイターを目指してほしいものです、クリエイターな方々って想像する創造エネルギーに満ち溢れていらっさいますしねえ(´ー`)

ま、人間とはやはり楽したがる生き物ですから、少なくとも完全な自由よりは何かしらの制限、枷という繋がりがあったほうが気楽に生きれるもんじゃないでしょうか。



ということで、3月のブログ更新を何気に振り返って見ると、これは決していろいろなブログでよくあるような「リアル多忙につき更新を停止します」系の都合では決してなく、むしろリアルが暇だからこそ、リアルの一層充実化が為にブログを更新しないことが多いということでもありまして、今更ながら誰に言い訳してますか?>私


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